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2014年12月30日 (火)

母との別れ

 それは突然の出来事であった。震災による原発事故で実家は避難区域となり、母は避難のため2年ほど政やんの近くの老人施設で過ごした。初めての施設生活は不本意ではあったろうが、介護5ではそうせざるを得なかった。

慣れるまでの3か月はほぼ毎日、その後も2日と開けずに母の元に通った。妻の協力を得てたまには我が家へ連れてきてはいつも3泊ほどさせたが、自力では動けないのだから、これはもう大変だった。公園や花見などにも連れ出し外の空気も吸わせてやった。

Dsc02687 我が家にて

Dsc03246 花より団子

Dsc04619 うなぎ美味かった―

2回迎えた正月は我が家で過ごし、3年目には実家に近い避難区域外にある施設に移って行った。この時は悩んだが、その方が多くの知人とも会えるだろうし、仙台に避難している跡継ぎの弟も週2回は母に会いに行くというので、今後のことも考えて踏み切ったのであった。

Dsc04658 正月我が家でゆっくりと

その後は、遠くなったので3週間に1度1泊で会いに行くようになった。母はその都度「しばらく来なかったなー」と言うのが口癖だった。母の好きな食べ物を持って行ったり、寿司屋や公園に連れて行ったり、少しでも気分転換や楽しみを感じてもらおうと思った

Dsc05726 寿司屋で大満足

Dsc07617 公園で昼食

そして今月初め、東京の姉と共に会いに行くと、母はベットに寝ており、「今日は眠い日なんだよね」と施設の人がいう。それでも起きてイチゴとずんだ団子を美味そうに食べ笑顔を見せてくれた。

Dsc08581 今日は眠い日
Dsc08593 起きて笑顔も
翌日は好物の寿司を食べたいというので買って行く。いつもは平らげるのにその日は3分の2だけ。それでも柿を食べ、ずんだ団子を食べたいと言い、食欲はあるし頭もしっかりしているので、まだまだ大丈夫と思い「また来るねー」と手を振って別れた。

Dsc08596 これが最後の写真となった

それが最後の別れになろうとは・・・。悲報は家に着いて間もなくあった。一時持ち直すかに見えたが、百歳を超えた体にその力はなく、意識を取り戻すことなく長い人生を終えた。突然逝かれるのも「ありがとう」の一言も言えず切ないものだ。

母は女手一つで子供4人を連れ、1年掛けて満州から引き上げてきた。日本に残して置いた家屋敷は管理を依頼した人の誤判断で失い、0からのスタート。母の頑張りと周囲の人の助けで、渡満前の家業を復興。子供達が何とか人並みの生活が出来るまでに育ててくれた。

そんな母の晩年は、震災も重なり自分の思いとは少しずれて寂しい思いもしていた様だ。それを埋めてやろうと努力はしたけど・・・。少し前に、母が「お前にはあちこち温泉に連れていってもらった、また行きたいなー」と言った言葉が心に残る。

20gyodou_051 母と最期に行った岳温泉

20gyodou_025 その時の母(6年前)

しかしもうそれが可能な体では無かった。母はそれを知ってか知らずでか・・・。母の言葉にただ「うん」と答えるしかなかった。母の葬儀は盛大であった。避難が続いている中で、弔問客が予想の倍以上だったことは、母の人柄を現していた。地元に移してよかったとつくづく思った。

11月には、日中のみ帰宅が可能となった実家で、母の誕生会をやった。これが最後の誕生会となり、百歳超えの大往生と祝って送りたいところだが、歳じゃないんだなー。母の生きざまを思うとなかなか気持ちの整理が出来ないでいる。

Dsc08417 最後の誕生会

お母さん!、ご苦労さんでした!!、ありがとう!!!。

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コメント

家の父は、ロシアで捕虜になり、何とか生き残って帰ってきてから結婚したそうです。10年前、88歳で他界しました。戦争体験者は、ただならぬ苦労を強いられたので・・・強い人間なんですね。母は、90歳。生きているうちしかできない孝行を心がけています。今年も鮎と孝行にがんばるぞー !!

sharakuさん
そうですか、お父さんはロシアできっと大変な苦労をしたんでしょうね。
お母さんを大切に、長生きしてよかったと思われるような孝行をしてください。
鮎釣りは二の次でしょう。

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